明治11年
石造りの橋にアスファルト舗装が施された神田昌平橋
©天野屋
文明開化の頃、日本の道はまだ「土」や「砂利」の道でした。岩倉使節団の随員として欧米の道路を見てきた由利公正は、明治11年、日本のアスファルト舗装第一号となる「神田昌平橋」の橋面舗装を実現しました。
・NIPPOの原点となる中外アスファルト(株)は、日本アスベスト(株)アスファルト部とアスファルト同期合資会社が合併して設立された。
・明治維新後間もなく、前年の1877年(明治10年)には西南戦争が発生、大日本帝国憲法の発布は11年後の1889年(明治22年)である。
・東京府知事・由利公正は、丸の内大火復興の際、ロンドンのオックスフォード街に習って銀座通り「レンガ通り」を完成させた。
大正13年
震災復興を果たした京浜国道(品川駅付近)
大正8年に「道路法」が制定され、ようやく舗装の普及が国策として本格化しました。「関東大震災」は、都市改造の契機となり東京には幅広の都市道路が作られました。欧米技術の導入が本格的に始まるのもこの頃です。
・「中外アスファルト(株)」を合併した「宝田石油(株)」と、もう一つの大手石油会社「日本石油(株)」が大合併(1921年(大正10年))し、舗装事業は「日本石油(株) 道路部」に引き継がれた。
・日本石油(株) 道路部は舗装事業を拡大し、各地の道づくりに活躍した。また、技師をアメリカに派遣し「ワービット工法」などを導入した。
・第一次世界大戦(1914年(大正3年))に勝利した日本は、6年後の1920年(大正9年)に国際連盟に加入した。
昭和9年
道路業界誌に掲載した「日本鋪道」設立時の広告
昭和に入ると一般道路でも舗装が始まり、多くの道路会社が設立されました。その中でも日本鋪道(株)は、豊富な実績と技術を背景に、海外でも活躍しました。その後太平洋戦争と共に、この流れは一端途絶えました。
・1934年(昭和9年)、NIPPOの前身である日本鋪道(株)(資本金100万円、従業員123名)が誕生した。
・設立時、大阪・福岡・台北・新京・横浜・名古屋・京都に出張所を置き、台湾、満州、朝鮮、中国、樺太でも舗装事業を展開した。
・昭和に入り日本の産業・経済・文化はめざましく発展し、これに伴い道路整備も各地で進み始める。
・日本は大陸に進出し、1933年(昭和8年)には国際連盟を脱退、ついに1941年(16年)には太平洋戦争に突入する。
昭和20年
雨のため、ぬかるんだ車を押して進む当時の道路
戦後、資材が乏しい中、荒廃した道路の修復が始まります。昭和23年には建設省が誕生し、国土復興のため日本政府が本格的な道路整備に乗り出し、間もなく技術基準類や道路整備五カ年計画などが作られます。
・空襲によって本社焼失。終戦によって海外の資産をすべて喪失。国内を営業区域として再出発。
戦後4年目の1949年(昭和24年)、日本鋪道(株)は建設会社として初めて東京証券取引所に上場しました。
大手ゼネコンより8年以上も早いことでした。
・戦後、日本の経済・産業復興のため、道路整備の機運は急速に高まりました。
・建設省は矢継ぎ早に新施策を発令し、1954年(昭和29)には第一次道路整備五カ年計画がスタートします。
・設立後の日本道路協会は、「アスファルト舗装要綱」(1950年(昭和25年))など技術基準類を次々に発刊します。
昭和28年
完成した代表的な山岳道路の「日光いろは坂」
昭和20年代後半の「千歳弾丸道路」や「日光いろは坂」などの難工事は、機械化施工の足掛かりとなりました。昭和28年にはアスファルトフィニッシャが輸入され、日本の舗装工事に大きな変革をもたらしました。
・幹線国道の他、飛行場の整備、自動車テストコースの施工など、大型工事が急増した。
・会社の体制を整え、支店、営業所、出張所を次々に設置し、要員も拡充した。
・奄美群島の返還など戦後処理も続いていたが、昭和20,30年代に現代日本の骨格が整備される。
・東京地区ではNHKのテレビ放送が始まった(1953年(昭和28年))。
昭和36年
日本で初めての高速道路(名神高速道路山科工区)
高度成長期に突入した日本では、急激なモータリゼーションが押し寄せます。ワトキンスレポートに後押しされ、昭和32年には初の高速道路となる名神高速道路の建設が始まり、高性能の機械・設備の導入が進みました。
・大型工事に対応するため機械化を進めた時期で、アスファルトプラントなどの工事用機械を輸入。
・資本金も増資を繰り返し、山科工区の終わる1961年(昭和36年)には、10億円となる。
・1964年(昭和39年)には東海道新幹線が開通し、東京オリンピックが開催された。
・1965年(昭和40年)の名神高速道路全通を皮切りに、全国の高速道路も次々に開通した。
・日本の経済は、こうした輸送網の整備により高度成長を続けることとなる。
昭和40年
曲面を舗装する自社開発のアスファルトフィニッシャ
自動車産業が興隆しテストコースが建設されます。この傾斜曲面舗装は海外からも高く評価され、国外の自動車メーカーからも引き合いを受けます。この時期は多様化への幕開けと重なり、特殊舗装の技術が深化しました。
・1969年(昭和44年)、日本初の保存型アスファルト合材「レミファルト」を販売開始し、離島工事、仮復旧工事、庭先舗装に供給し始めた。
・1970年(昭和45年)には、全国のアスファルト合材工場で合材販売を本格化した。
・日本の社会経済は、1973年(昭和48年)のオイルショックまで、安定的に成長を続ける。
・1969年(昭和44年)には東名高速道路全通。翌年、大阪では日本万博博覧会(EXPO’70)が開催される。
昭和48年
千葉合材工場に設置された
リサイクルプラントの試作第一号機
昭和48年と54年のオイルショックを契機に、省資源・省エネルギーの時代を迎えます。こうした中、アスファルト舗装材の再生利用、産業廃棄物の有効活用、路床・路盤の安定処理などの技術開発が進められました。
・資本金は増資により33億円となる。
・1973年(昭和48年)、合材工場は全国54工場となる(現在150工場)。
・道路工事は高速道路から生活道路まで、堅調に推移する。
・日本経済はオイルショックから立ち直り、成長を続ける。
・1980年(昭和55年)、日本の自動車生産台数は1,000万台で世界一となる。
昭和55年
「レズライト」は、降雨があっても競技が可能である
暮らしが豊かになり、アウトドアスポーツが広がります。舗装技術はこうした施設にも活かされ、陸上競技場やテニスコートなど各種のスポーツ施設において、足に優しい舗装や色とりどりのカラー舗装が展開されます。
・昭和50年代・60年代はニーズが多様化し、各種の技術が開発された。
・イラクでの港湾舗装工事やインドネシアでの高速道路工事を受注した。
・高速道路、新幹線共に整備が進み、本州四国連絡橋も一部開通した。
・1987年(昭和62年)には、国鉄分割民営化し、JRが発足する。
昭和60年
手前のパービアス舗装は、路面に浮水がない
昭和60年代以降、道路利用者のニーズは益々多様化して行きます。交通安全面では排水性舗装などが開発され広く普及しました。また、まちづくりの面では各種の景観舗装が開発され、快適な空間創出に貢献しています。
・会社は新しい時代に入り、舗装専業から多角化を目指すようになります。
・建築、開発の分野にも進出し、その後、大きく花開かせることになります。
・このため、2003年(H15)には社名も(株)NIPPOコーポレーションに変更しました。
・1988年(昭和63年)には、青函トンネル、瀬戸大橋が全通した。
・1989年、昭和の時代は終わり平成元年となる。
平成23年
遮熱性舗装の効果
左が通常の舗装、右が遮熱性舗装
赤外線画像で見るとその差が明らかです
現在は環境の時代ともいわれ、様々な環境問題を抱えています。このため舗装サイドからも環境舗装と称される特殊な舗装が数多く開発され、中でも遮熱性舗装は世界道路協会の「最優秀技術革新賞」を受賞しました。
・資本金:153億24百万円
・従業員:3,772名 売上高:3,765億円
・組織:本社、3管理支社、12支店、361事業所、157合材工場、海外11事業所
・脈々と受け継いできた舗装事業を中核としながらも、現在は、建築事業、開発事業など、「道づくり・まちづくり」に関わる事業を展開しています。
・また、NIPPOの舗装技術は海を越え、世界中のインフラ整備に貢献するべく、海外事業にも本格的に挑み始めました。
・2011年3月11日の東日本大震災では、いち早く道路の復旧に取り組んだ他、新入社員によるボランティア活動の実施、地震に強い舗装工法「HRB工法」の確立など、復興支援と安全な国土の構築に向けてまい進しています。